Twitterで拡散された、数名の男女の写真。
三浦春馬へ向けた、舞台共演者たちの寄せ書きが炎上して、
中心人物の俳優、勝村政信が謝罪文を所属事務所のサイトに載せました。
三浦春馬さんへの寄せ書きに批判 勝村政信が謝罪 https://t.co/eU7JwHisgt
— シネマトゥデイ (@cinematoday) August 22, 2020
三浦春馬と勝村政信は、以前舞台で共演しており、親しい間柄だった。
それで共演者たちと忍ぶ会を開き、そのときに書いた(のか以前に書いたものかは不明)寄せ書きと集合写真が、SNSで拡散されたというのが発端でした。
当事者同士はわかるだろうが
炎上の主な原因は、勝村政信の三浦春馬への呼んでいた呼び名の下品さと、寄せ書きの写真にハートマークが描かれていたり、ピースサインで集合写真が、彼らの関係を知らない立場からすると、ぎょっとなるものだったからです。
謝罪文を読んだ人のなかには「二人の関係は二人にしかわからない」と擁護する意見も多く見られます。
また、理由を聞いてもその呼び名はセクハラじゃないかという意見もある。
人間関係は当事者同士しかわからないし、この場合は、受け止める人間が亡くなっているので、彼が内心迷惑と感じていたか、親しみを感じていたか、その何でもないのか、真相はわかりません。
つまりそのあたりは想像するしかありませんが、私は、彼らの真相について、想像したいか、知りたいかといえば、何も知りたくないし、できればそっとしておいてほしかったですね。
追悼文は一体、誰のために
今回の三浦春馬の件では、多くの友人たちがSNSなどで追悼していますが、ここにきて追悼って一体誰のためにあるんだろうと、考えてしまいました。
追悼
死を悼み、悲しむこと。法要を営んだり、会合などにおいて全員で黙祷したりといった形で表されることが多い。weblio 辞書より)https://www.weblio.jp/content/%E8%BF%BD%E6%82%BC
追悼は、亡くなった本人に向けて悲しみを伝えているのが本来なのでしょうが、現実はその言葉は家族や、この場合だとファンや、同業者たちにも向かいます。(向かってしまう)
突然親しい人が亡くなる喪失感はたとえようがないし、その気持ちはよくわかります。
悲しみをどこに向けていいかわからないから、文章や言葉にする。
自分自身の心を慰めるための追悼という意味もあるのでしょう。
この場合にしても、おそらく共演した役者さんたちの、それぞれの思いがあったはず。
コロナのことは別としたら、集まって追悼したくなる気持ちは理解できますが、それを自分たちのカタチそのままで、SNSにアップしたことについては理解に苦しみますし、困惑してしまいます。
困惑の原因は知りたくないから
彼らの関係が実際どうだったかわからないし、わかることはおそらく永遠にない。
ただ、ファンにとっては知りたくもないこともあり、知らないでいる権利だってあっていい気がする。
私は、三浦春馬のファンだけど、勝村政信のファンではないので「俺たちのディープな関係」を知りたくないのに、知ることになってしまった気持ちの悪さが燻っているのだと思います。
悲しい気持ちは一緒のはずで、純粋な気持ちのはずなのに、各々の表現や認識などの違いが、違和感になって摩擦を起こしてしまった。
第三者を話題にするときは、いつでも言えることなんでしょうけど、想像力が必要になるんでしょうね。
追悼は言われた本人から返信があるものではないので余計にデリケート。ストレートに自分の悲しみを表すことが決して悪いわけではないのでしょうが、大勢の人の目に触れることを想定すれば、配慮が必要と考えるのが一般的だったのでしょうね。
そんなことを、考えてしまいました。
それではまた。
のじれいか でした。